世の中の基本的なことの再確認

浅学者が暇つぶしに恥をかくブログ

読むとは

 読むってなんだと言われ、パッと答えられるかどうかは微妙なところだ。基本的には一つの本を最初から最後まで見ることを表すのだと思う。最近はしばしば読むということを考える。

 齋藤孝氏によれば、読む行為には速読と精読の二つがあるという。別にこれは氏の独自見解ではなく、学術世界の一般的な理解だと思う。

 速読はとにかくざっと読み通すことだ。うさぎの如く、つらつらと流し読みをして読み終わる。感覚的にはブリーチを読むのと同じような感じで、とにかく巧遅拙速に如かずという印象がある。

 精読は文字通り、精密に読むことだ。つまり、一文一文をしっかり理解して読み進める亀の歩みと同じだ。これは理解こそ深まるが、とにかく遅い。一冊読む時間で他のテキトーな本三冊くらい読む方が知的に有意義であると言われると、まぁそれはそうってなると思う。熟読ともいうが、両者は違うようにも思える。熟読は理解の為に、言外の意味をも汲もうとすることだと個人的に思っている。

 まぁ熟読と精読の違いとかはどうでもいいんだが、先述した私たちの基本的な読書の理解はこの後者と同化しているように思う。つまり、私たちは基本的に読書の「始めから最後までを見る」ということを精読と殆ど同一視しているということだ。考えてみると当たり前だ。一般に多くの人が読むのは、小説の類だろう。

小説は当然、パラ読みでは楽しめない。途中から読んでも分からない。物語を深くしれば知るほど、感情移入が深まり、物語を味わえる。必然的に精読せざるを得ないのだ。

 これを踏まえてか、速読を強調する教え方がよくみられる。必ずしも読むということは精読だけでなく、速読して知識を大まかに理解することも必要であると学術世界に入って来た大学生に説明するのだ。というのも、専門性は、多くの教養を得ることでやっと理解できるようになる難しいことだからだ。

 にも関わらず、今日現実空間においてはやはり精読が強調されているように見える。「読んだ」とはそのディティールを語る事であり、初めから読み始め、一字一句精読し、最後のページの最後の行までしっかりと読み切ったという事である。われわれがそれ読んだの?と聞くときは、そういう意味を聞いている。

 やはり読むということは精読するということなのだろうか。

 話は少し変わるが、近世ヨーロッパまで、読むという事が私的空間で行われることは少なかった。市民において読書は家族にその情報を伝える為にやることだった。同様に、文字書きのできない人に口伝する為に、政府から配られた文書を読むという行為が行われていた。映画館での映画から、DVDでみる映画への変遷と似た事が、ヨーロッパでは起こっていた。

 これを踏まえて先ほどの文章を見てみると、相関性が見受けられる。今日に生きる私たちは、読書はパブリックなものというより、プライベートなものになった。誰かに伝える事が主目的ではなくなったのだ。だからこそ我々は自分の為に本を読み、自分の為に解釈し楽しむ。勿論誰かに伝える目的で本を読む場合はそうなるが、基本的に本を読む時、その過程は他の誰かに見られる可能性はほとんどないのだ。にもかかわらず、今日精読が読書とされる。読書は必ずしも読み聞かせをする必要は無くなったので、誰かが果たして読んでいるのかは曖昧になる。本を持って、パラ読みして、有名な句だけを唱えれば「よんだ」ということになる時もあるのだ。精読が「読んだ」にされるのに、その実、精読を求めることはほとんどない。この奇妙な空間が私たちの形作っているコミニュケーションの空間の一部である。

 この点に関して、フランス文学研究者のピエール・バイヤールがかなり挑戦的な本を出している。そのタイトルは衝撃的で、「読んでない本を堂々と語る方法」というものだ。彼によると、本を読むということは必ずしも精読ではなく、ディティールは実に瑣末である。私たちが読んで頭の中にしまった本と、実際のテクストは全く異なっていると。また、先のコミニュケーション空間で読書を確認する方法が曖昧なことを強調して、読んだかどうかはそこまで重要でなく、むしろ精読、そして読んだことにこだわって自分の創造性を本に縛られることに対しての警告を、極めてアイロニカルに主張している。

 このブログの内容にも食い込んでくる実にメタちっく且つ、本は読まなくてもいいものだと誤解を招く際どい主張だが、一理、いや百理あると思う。

 結局、われわれは何読んだかってのをよーわかんないのだ。見てないアニメを見たっていう時に上手いこと断片的な知識でごまかしたりしたこと、中高生の時に体験したことはないだろうか。最新巻を読んでない漫画本についての話で、序盤の話だけで乗り切ったことはないだろうか。別に原本を読んでないけど、ネットに上がっている情報だけで会話をしたこととかあるんじゃないだろうか。現実空間における「読む」とは多分ほとんどこれだと思う。

 で、それらを踏まえて考えると、「読む」ってそんなアバウトな感じならあんまり重要視しなくてよくね?って考えに至る。こんな風に雑に誤魔化せることに対して執着するのがまずナンセンスではと思い至る。所見だが、読むとはそういう形式的なことではない。朱子学チックな形式主義と読書は全く合わない。アレキサンドリア図書館で、学者が熱心に本を読んでいたのは、「読んだ」という形式が欲しかったわけでなく、純粋に知見を広めたかったからだ。この形が貴族の教養の常識意識から市民の読み聞かせへと移っていく過程で、形式化したように思える。

 

 何が言いたいかっていうとバイヤールは凄いってこと。さすがベストセラーになっただけはある。適当に読んでみた本だが、読んで良かったと本心から思える良い本だった。今回の思考結果は強くバイヤールに影響されたものになった。

 読むってのはつまり、その本が言いたいことを理解して、且つそれを自分の脳内に組み込む(自分の見解を形作るための支えにする)ことであり、そこにおける形式とかは別にどうでもいいことだと思う。モンテーニュのエセーは、文字通り随筆調で、どこから読んでも楽しむことができるとよく言われている。エセーはまさに読書の本質をよく表している。

 この意味で、「良き書物を読むことは、過去の最も優れた人物と対話することと同じである」のだ。無機質な文字と睨めっこをするより、文字の中にある生きた流れとの対話をした方が有意義なのではと思ったところで結論。今回もなんとも陳腐な結果になったが、一応ある程度の結論は出たのでこれで満足。今回は以上。