世の中の基本的なことの再確認

浅学者が暇つぶしに恥をかくブログ

想起した事

 最近は色々と忙しく、しかも暑過ぎるのでものを考えることもあまりできていない。

 本当に暑過ぎる。今年は天変地異が多く、いつのまにか夏に入っていたという感じだ。信じられないほどの快晴と色彩の鮮やかさは、今までの不安定さを隠すが如く夏が来たぞと主張しているが、むしろその眩しさが色濃い影を作り出しているようで例年通りの気持ちの高揚は余りない。

 夏といえば、今年はあまりセミを聞かない。各地で既にセミは鳴いているのだろうが、自分の周りで殆ど聞かない。所用で駒場に行った時にようやっと初めて聞いた位である。(これは書いている時の話であり、流石に投稿時には各地で鳴いている)。セミもやはり昨今の奇怪な状況に混乱しているのだろうか。

 台風、地震、豪雨に極端な気温変化…こうした環境的状況に加え社会的な部分も悪い話ばかり流れている。政治、社会的な事や身近な人の物語、人の死と言えば、最近起きたさまざまな出来事が浮かぶと思う。もう何年も、何十年も、我が国ではどことなく暗澹とした空気が流れているようだ。

 SNSではこうした状況から、終末が来るといったような冗談が生まれている。これを見て思い出したのが、セム 語系宗教の終末思想と中近世の人々のことだ。

 終末思想とはなんぞやと言えば、かなり端的に言えばキリスト教最後の審判のような、この世の終わりが来て全てが滅ぶという文字通りの意味だ。現代人(特に日本人)はこういう考えをあくまで冗談的に言うことが出来るのだが、昔の西洋人はこれを本気で信じていた(より正確にはそういう人々が一定数いた)。私は最初、これがどうしてか理解できなかった。どういう認識をしたら本気にすることができるのかと、本気で信じてはいなかったのではないかと(実際そういう人は一定数いただろう)、現代人の視点からものを見続けていた。

 例としてあげるなら、近代の象徴として祭られることになった中世人の代表のルターは、なんとも対照的なことにこの神秘的な終末思想を持っていた。恥を忍んでいうと、私は最初この事実に驚愕した。彼は「キリスト教」の牧師で信心深いとは頭で理解してはいたが、それまでの学習では彼の原動力は近代的な精神だと思わせるようだったし、よしんば彼が保守的な存在でもせいぜい神に対する敬服程度で、まさか終末を本気で予感する程の信心深さを持っているとは思わなかったのだ。彼の改革は、迫り来る終末の為の熱狂的な活動にしてはあまりに消極的で現実的だった。   しかしルターも、ネーデルラント、フリースラント各地の一般市民も、富裕層も、カルヴァンも、ツヴィングリも、諸侯さえも程度の差はあれど皆終末的予想が心の中にあった。ピューリタン革命に終末思想が関わっていることも有名であろう。絶えず人々は終末思想を持ち続けていた。

 これは一体何故なのだろうか。所見では、端的に当時のヨーロッパ(就中ドイツが)全土にどこか暗澹とした空気が流れていたからだと思う。時のヨーロッパは決して良い時代とは言えなかった。日常的に繰り広げられる酷い光景を見る市民や牧師も大勢いたはずだ。ペストの脅威がまだ記憶に残っており、異端に対する不当な裁判、戦争に次ぐ戦争、傭兵やら崩れ者の跋扈と簒奪、飢饉、寒冷期…贖宥状を買う人が少なからず居たことは、こうした環境要因もあっただろう。当時のヨーロッパは概して、暗い時代だった。ブルクハルトという歴史家が19世紀以降ヨーロッパを包む奇妙なオプティミズムに警句を鳴らしているように、ヨーロッパの空気が明るかったことなどむしろ珍しいくらいだった。

 過去のヨーロッパ人達が信心深かったのは、単に昔の人だから、合理性があまりなかったから、迷信深かったから、と一線を引いて割り切った理解をすることはできるが、考えてみれば科学的手法を思考様式に取り入れた現代人の、しかも無宗教性を強調している日本人がこうした空気からインスピレーションを受けて終末を連想して、冗談めいて発露し、しかもそれが多くの人に受け入れられる状況と何ら変わらない。この冗談を笑いながら心のどこかでほんの少しでも一瞬でも想像して「もしかしたら」と思った人は絶対に多いはずだ。ジェームズフリン教授は、人は世代を経るごとにIQが上がっていると言っていた。その事は恐らく事実だと思う。しかしそれは過去との断絶を表しているわけじゃなく、むしろ過去との連続性を表していると捉えられる。

 今日の状況は、そうした思案を想起させる。ただそれだけである。僕もまた信心深く子供ながらに終末が来るのではと思いつつ、競馬やテストや労働にうちこんでいる。