世の中の基本的なことの再確認

浅学者が暇つぶしに恥をかくブログ

人間的な、あまりにも人間的な故に。

なんというか、ここに書くのはちょっと恥ずかしいのだが、少し見苦しい部分を吐こうかなと思う。

 恥ずかしいことに僕は聖人じゃないので、卑しさを大量に抱えている。主観としてはこのことを言うのは大変恥ずかしいのだが、出来る限り客観的に分析する為に、それはナンセンスだと割り切る。

 なぜそうなったのか。多分、自分の能力の低さとそれが反映された人生と相関性があると思う。だが、その事について考察はしない。今回の主題は自己の卑しさを演繹することだ(これ使い方合ってる?)。

 

 …どこから述べればいいのだろうか。僕は自分の能力や、知識、思考能力、そして積極性が劣っていることは承知しているのだが、世間を覗くと僕より圧倒的に潜在的な能力の高く、自分と年も近く目指すところも似ている人を多く見る。そうした人々と僕が並んだビジョンを思い浮かべて、シュミレートすると、彼らは、苦渋を舐めつつも進むのをやめなければ先に進んでいくのに対して、僕は同じ苦渋を舐めつつも進むことができなかったり、現実逃避やその場の誤魔化しで生きていくビジョンがありありと見えてくるのだ。

 辛い事実ではあるが、妥当性はある。自分がネガティブなのはとっくに知っているが、そこを考慮してもこのシュミレートは妥当性があると思う(要出典)。

 ただこれには問題がある。そうした優秀な人々が苦しみながらも前に進むのを辞めないことを、前提としている点である。

 実際は、そうでない場合がかなりある。僕より優秀な人たちは、優秀であった為に自尊心もそれなりにあり、挫折経験も少ない場合が多い(これは特に若い人にその傾向がある)。彼らは能力こそあれども、それが通用しない段階に上がった時のメンタリティを有していることが少ないのだ。

 この種の人物は、確実にいる。

 自分の能力を基礎に努力を繰り返すのではなく、自分の能力に依存していた人がそれだ。前者がそれまでの努力や苦難の経験から、努力も込みで自己の優越性を冷静に認識するようになるのに対し、後者は順調にステップアップしたところで急に自分の力だけでなく努力も必要なことを自覚すると、狼狽する。自己の矮小さに晒されると、縮こまって、井戸の中に引きこもり、概してネガティブな自問自答を繰り返すのだ。彼が入る井戸には他の誰も入れず、見えているのは真上に見える煤けた青空だけ、そんな空間でひたすら自問自答するのだ。そうして最後にはネガティブな自己世界が形成され、今までやってきたように、逃げようと決める。このタイプの人はそうやって消えていくのだ。考えてみれば当たり前である。彼らは自身の能力に全力の信頼を寄せているから、際限なく拡張指向性を持つ。しかし彼らの能力は無限ではない。枠が広がり続ければどれだけ優秀でも、いずれその能力を覆い隠してしまうだろう。であればいずれ隘路にはまることを運命付けられているようなものだ。

 僕のやりたい方向でも、そういう人は居る。そういう人を観測し、彼らがやがて、軋轢に耐えられずに逃げていくところを見ると僕は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ホッと、してしまうのだ。

 

 

 

 

 

 ホッとする…この一言だけで自分の卑しさは嫌という程伝わると思う。有望な人間が加わらない事なんかどうでもいい、と思っていた。僕は情けないことに、自分よりも有能な人間が消えていくことに絶対的な安堵感を覚えていたのだ。

 その時、その瞬間、僕はこのことは、他の人にも当てはまるのではと思った。僕の憧れの対象であった学問の世界は、何故そうなるのか分からないほど幼稚な人もいることを観測している。前までは、それが理解できなかった。しかし今は、実感を伴って理解できる。彼らの行動の起源はきっと上記の感情なのだろう。

 

 例えばの話をする。

弱々しい能力の中で歯を食いしばって図太く生き抜き、なんらかの世界の権威に収まった人がいたとする。その人は、優秀で自分より若い人に対して嫌がらせだとか、濡れ衣、露骨な冷遇などを行い、人類全体の幸福を促進させる発見だったりしても、ちっぽけな自己の為に抑圧することも辞さない…似たような話をどこかで聞いたことがないだろうか?

 この「仮定の人」の行動の起源は、先に述べた人間らしい醜悪さを相対化できず、肥大化させていったからなのだろう。

 なにを当たり前のことを、と思うかもしれない。しかし、その当たり前のことを認識することはあまりに難しい。人間は自尊心がなければ生きていけないので、欺瞞を掲げざるを得ないからだ。自分自身を欺く自分がいる。そのことを本当に認識して、自覚している人は一体どれほどいるのだろうか。上述の「仮定の人間」を嘲笑しながら、いつのまにかその「仮定の人間」に自分の名前が代入されている事に気がついて驚く人はいるのではないだろうか。

 少なくとも、僕は、あの卑しさを実感した僕は、「仮定の人間」が他人ではなくなるかもしれない事に気がつき、身震いしてしまったのだ…

 このことは、学問の世界のような崇高な場所でも権威主義教条主義のような問題が根強く存在しうるということを明らかにしている。述べてきたような人間らしい醜悪さが教条主義権威主義を構成する要素の一つであるならば、これを取り除くことはほとんど不可能だ。

 なぜなら、もし上記の問題が全て存在しない理想的な形か形成されうる場合、その構成物全てが僕のような普遍的な人間らしさを捨てた存在でなくてはならないことを意味しているからだ。そんなものは無理だ。きっとそのような人々は、生きていくことだけでも困難だろう。

 

 僕はまだ、この問題にどう向き合っていけば良いのか分からない。一つ言えるのは、人間は本質的にどうしようもない醜悪さを含み、それは取り除くことはできないということだ。

 無責任な哲学者のように月並みな言葉を残すとするなら、私達は自己の醜さと向き合わなくてはならないのだろう。多分。