世の中の基本的なことの再確認

浅学者が暇つぶしに恥をかくブログ

悪魔の発想

夜中に痛い妄想で脳が支配されてしまうのは、中学時代に多くの人が経験する出来事だと思う。

私はいい年して未だにそこから抜け出せず、頭の中では断続的に色んな妄想や場面が繰り返されている。これが病気だとか、拗らせだとかそういった話は面白味がないので置いておいて、ここにメモとして綴るのは、その中で気づきゾッとした事象についてである。

 

私が一場面を妄想する場合、その主人公は情けない男子中学生と同様に、限りなく自己に近い存在になる。

ただし全く現実的な自分を写し出しているわけではない。妄想の中の主人公は、いつも理想の自分や理想の人格を混ぜ込んだものだ。理論上の最高点、宗教における聖人のような、モデルケースでありながら、孔子のように決して癖や人間らしさがない訳でない存在、それが妄想の中の主人公である。シチュエーションや場面は違えども、みなこの理想の上での自分が常に妄想での主役だった。この妄想は、一種のシミュレーションの役割を担っている。日常や物語のあらゆる場面で自身の印象に残った箇所を、自分ならどうするか、なぜこうなるのか、のシミュレーションをし続けているのである。

私はこの間、例に漏れずそうした気まぐれの妄想をしていたのだが、そこではその聖人主人公が、若い女性と睦み合う一場面だった。文字にすると本当に痛々しいが、問題はそこではなく、主人公が若い女性に対し、精神における弱い部分やかなり常人離れした癖を認めたのち、受け入れている図だった。

その時の主人公は仏のような顔をして、心持ちは許容をする快感を全身に受け止め多幸感に溢れていた。なぜ、他の人は互いに争い、負の感情をちらつかせ、ささくれ立つのだろうか、そのようなまさしく菩薩の心になっていた。

だが、それを満足げに眺めていた自分はあることに気がつきゾッとしたのである。

それは、そうした心持ちが、相手を無意識に、無条件に見下すことを前提としているかもしれないという点であった。

 

要するにこれは、自己を上に置くことでそれに対する圧倒的な優位性を付与し、そこからその「庇護対象」への慈愛の目を向けているのではないか?

翻って私を見てみると、この聖人主人公の論理をよく採用しているのをよく見る。私は争いが嫌いだった。それは自分がかつてあまりに稚拙で攻撃的だったことへの嫌悪からだった。だからそんな自分を変えたくて、アニメや漫画の主人公のように人徳のある人間になりたくて、必死に争いを嫌うようにした。

元々本質的な面で争いを嫌う要素はあった。いつも悲しい思いをするし、負けるのは僕だったからだ。だがふっかけられた悪意を避けること、これは難しかった。そこで知らぬ間に解決する手段として、それを受け入れるという手法を取り出した。開き直って向こうの言を積極的に肯定したり、その人の攻撃を弱さゆえのものだと「同情」することで納得をつけてきた。

そう、まさにこれは聖人主人公のそれなのである。「僕にもそういうところがある。」「僕もそういう時期があった」「僕はその気持ちがわかる」そういった言葉で不快感を飲み込み続けてきた。そこから不快を思案に変える時が多かったが、次第にそれは幸福感へと変わっていった。子を見つめる母のような、かつての自分を見る私のような、そのような慈愛に満ちた心持ちになることで、不快なものを許容する手法というものを形作っていった。

…これは、全く恐ろしい人工の天使で、その実態は欲深い勝利欲と自己陶酔を起源としていたかもしれないのだ。

包むというのは包む側が包まれる側より大きくなくてはいけない。その時点で両者の優劣は明白である。他者を対等な立場として見ずに、縮小化して自己の中に抱擁する。外面は美しいが、内面は実に真逆のグロテスクさがある。

…これは、悪魔の発想だ。

単純な悪事ではなく、狡猾で、残忍で、傲慢で、欲深く、

ただ純粋な勝利欲と相手への攻撃性を誤魔化して、

白塗りの化粧を塗りたくり、相手を徹底して見下し、自身は聖人のように振る舞い自分自身も騙す。

 

…もしかすると僕の理想とするものは、そういう汚れたロジックに満ち満ちているのもなのかもしれない。現実の私は矮小愚鈍、自己より弱い者に強く、自己より強い者に弱く…業人が見る聖人とは、ややもすると他の人が見る聖人と別の何かなのかもしれない。天道にいる者が見る聖人は、こうしたロジックを持たない何かなのかもしれない。しかし私は修羅を超え、畜生と化し、餓鬼さえも超えた獄卒になった。そのような者が見る聖人とは、果たして成人なのだろうか。結局のところ、大本は変わらないのではないか。

 

それが、とても、怖い。