世の中の基本的なことの再確認

浅学者が暇つぶしに恥をかくブログ

龍河洞であったこと

 

 前回の記事では(突発的だったので)語っていなかったが、私はこの連休で四国の方に来ていました。

 

こういうご時世なので、出来る限り三密などを避けマスクをして至る所から聞こえる大阪弁を聞きながら、肩身の狭い思いをしていたのですが、得るものは沢山ありました。

 

四国をざっと見たところの所感は、忘れていなければこの次の記事に書くつもりなので省きますが、今回はその中の龍河洞という所に行ったことを綴ります。

 

 龍河洞はいわゆる鍾乳洞で、弥生人の史跡と自然の神秘を両方見ることのできる高知の観光名所です。

詳しくはwikiを貼っておきます。

 →龍河洞

意外と凄いところなんですね。近くて行けそうだと思ったのでふらっと行ってみたのですが…

 

今回伝えたいメインの話題はそこを見終わった後の事なので、ザッと内部がどんな感じかお伝えします。

こんな感じの石段を登って行き(私は横にあるエスカレーターで登りました)

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入り口でチケット1200円を買うと入ることができます。

 

 内部は下記の如く
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中には狭い通路と流れる水の音、そして自然の妙技によって形成された空間が広がっていました。

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すばらしいですね。

 

はっきり言って、感嘆の嵐です。そのあまりの美しさに、思わずなんども唸ってしまいました。

これほどまでに写真や動画で伝わらないものがあるとは。以前の記事で述べましたが、まさしく今回は見返してもその時の空間を4割も再現できていないものばかりでした。

 

見終わった後調べたブログの方も述べていたのですが、この場所ほど写真では伝わらない美しさがある場所は少ないでしょう。

 

少し観光地化され過ぎているのが残念ですが、(写真1枚めのブルーライトなど、奇麗ではあるが少し見る人を意識し過ぎている気もしました)現物の素晴らしさがそれを抑えているので問題ありません。

 

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 この場所は弥生人が暮らしていた史跡でもあるようで、考古学的な興味深さも刺激されました。

僕は水の滴る岩肌に触れてその感覚を感じながら、ここを探索し、弥生人の史跡を発見した時の高知県立中学某先生の心情たるやいかにと想像していました。

 

龍河洞についてはこのような感じです。是非、ご自身で体験してみることを勧めます。できれば人のいない時で。

 

…本題はこの後の下り坂にあった土産屋です。私の経験不足から、土産包丁関係で無駄金を使ってしまい、更に闇を感じてさっきの神秘感など降りる頃には全く忘れてしまったのです。

 

 

 

 

 

出口は山の上なので、そこから下まで降りる必要があります。

 

その途中で、若い男女がやっている露店の土産屋が設置されていました。

 

ここはどうも鉄が取れるからか、包丁や刀、刃物などが鉱物と一緒に土産物として売られているのです(バス停から画像1枚めのところまでの商店街で、積極的に展開されています。この時は後でいいかとスルーしました。)

 

若い女性の方がよく話しかけてきて、包丁の切れ味を見せてくれた後(これはどこでもやってます)、「こういうご時世なので全部半額にしてるんですよ〜」と言うのだから、元々祖父母に贈ろうかと考えていたこともあって、定価6000の半額3000円で買うことにしました。

 

男女共々愛想が良く、私が関東圏から来たと言っても嫌な機微を見せずよく対応してくれたので、心地よく別れたのですが、

 

別れ際に男性の方が、

「この先同業他者が多くてこっちの中傷してきたりすると思うんですけど、気にしないで無視してくださいね〜!」

と言い、(ん?)と思ったのも束の間、少し降ると2軒目の店舗がありました。

 

またあるのか、と思いつつ通り過ぎようとした時、「見るだけならタダだよ!」と縁眼鏡をかけた中年の人が話しかけてきました。

 

その人は「それいくらしたん?ははぁ〜えらい高いなぁ。昨日は2500円で売っとったのになぁ」と近づいてきました。(土佐弁には自信がありません、雰囲気で文字にしています)

 

 

(ははぁ、これがさっきのか)と思いながら聞くところ、この人は遠回しにネガキャンをチラつかせる売り文句や、何かを含んだような声色で話すのだから、どこか怖くて一気に緊張しました。

(失礼ながら、よく言われる想像上の京都人のような印象を感じました)

 

「上のお姉ちゃんが対応した?」などと、探りを入れてくるような質問も多々あり、声色も優しく笑顔なのですが、目が笑っていないように見えました。

 

 ここまで聞いてやっと確信しました。龍河洞の土産屋同士は、何か一悶着あると。

 

しかしこの人の売り文句も一理ありました。確かに先程買った包丁には銘柄が入っていないし、値段もこちらの方が安い。その理由も作っていた老人が死んだからというもので、まぁ素っ頓狂なものではない。送ってくれれば研ぎ直すとも言う。

 

押しに弱い私は、ここでも迷ってしまいました。

 

先の一つは実家用にして、土佐銘柄入りのこれを贈ればいいかと思ったからです。

ただ、どちらかというとここまで聞いて逃げる方法を見失っていたというのもありました。

 

緊張の中で、

先の安くなった理由も信用できたものではない、かと言って上の店が度々遠回しに示唆される''偽物''を売っているという可能性もある。それで客を取られて、この人が怒っているのならこの人側に理がある。そもそも3000・2000で買える包丁などが良いものなのか?

と、グルグル考えていました。

 

すると向こうが2500円を消費税込みで2200円は値引きすると提示。

 

これは来た!と思い、すかさず、「2000円じゃダメですか?」と言いました。

 

すると「2000…う〜ん、おっちゃんも利益は欲しいからなぁ〜」と言ったので、ううんと長く唸ったところ、買わないと踏んだのか即座に「分かった!2000円にしたるわ」と売ってくれ、安堵しました。

 

包装も確かにこちらの方がそれっぽい。包みの最中、周りを見ていたこちらにわざわざ説明書を見せ、「上にはなかったやろ?」と言い、別れ際にも偽物に注意と書かれた表札を見せて、薄笑いしながら「下にもあるから気をつけてな」と含んだ声で言われ、この人は最後までこの姿勢を崩しませんでした。

 

別れ際の会話で聞かれたので、自分が関東圏から来た社会人であることを開示したのですが、上の人達とは違い「ほーん」と言われただけ、まぁまた来たら買ってなと言われました。僅かですが顔に拒絶の機微があったように感じ、逃げるように礼を言って去りました。(そう思ってなかったら申し訳ないのですが)

 

(当たり前と言えば当たり前ですね。服装から学生と思ったのでしょう、おそらく定価らしい2500から500も割引きした後、金に余裕のある社会人だと分かり、しかも関東圏だと分かれば、まぁそうなる気もします。)

 

商店街には

''龍河洞に登る前に''お買いください。お買いくだされば見ている間にお名前をお掘りいたします。

といったような看板が多々ありました。

 

入る前はなるほど時間的に効率が良いしなぁと思っていたのですが、降りてから改めて見てみると、そういう意味も含んでいたのかもしれません。どちらの意味でも賢いやり方だと感心しました。

 

 

 

 

 さて、降りたのち急いで色々調べたのですが、どうもここでは昔、観光客の取り合いで押し売り紛いのことが多発していたようです。

 

今ではそういったことは無くなったようですが、先に述べたような水面下の競い合いは続いているようで、上記のような経験をする羽目になったらしいです。どこで買えば適切なのかはよく分かりません。一応、バス停すぐ近くにあるおばさんのやっている店は特にそういった雰囲気が感じられず、心証が良かったです。 

 

ちなみに、先の方と思われる人物に、ブログ主が南大阪出身だとわかると罵声を浴びせられたという記事を見つけ、さもありなんとなりました。

内容は南大阪に刃物の名店があるらしく、それへの対抗心か知らないが南大阪のものを偽物と断言し一方的に罵声を浴びせたようですが…どうにも。

 

職人気質な方なのでしょうかね。良いものを作っているのかもしれないのですが、売り方が少し勿体無いと思います。まぁ競合相手に売り上げを取られてのっぴきならない状況なのかもしれませんが…

 

ここまで長々と私の主観による悪い印象について言ってしまいましたが、恐らく気難しい方なだけで、悪徳とかではないというのは明記しておきたいです。

 

1軒目はまさに路上に簡易設置したという感じでしたが、ここは簡易ながらもしっかりとした品揃えの店で、看板も年季を感じました。

 

包みに書いてあった店名は下の商店街にあった店と同じで、龍河洞の公式HPに取り上げられている老舗のようです。

一応こちらに優しく対応してくださり、値引きもしてもらいましたし、決して悪い買い物ではないと思います。恐らく次同様の状況になったらこの店から買うでしょう。

 

ただ、こういった闇を感じると製品等不安を覚えますから、あえてここでは何も買わないのも手かもしれません。

 

以上、長くなりましたが現在の龍河洞について訪れる人の参考になればと思い記します。

 

 

(左が1軒目、右が2軒目)

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龍河洞HP:http://ryugadou.or.jp/

 

 

 

 

宇和島多賀神社にある性器資料館

 今回、何気なく訪れた神社のインパクトにやられてしまったので、そのインパクトを忘れないうちに、筆を取ることにする。

 

 

 四国を旅行していた時、宇和島で電車を待つことになった。そこでタクシーの運ちゃんに何か良い神社がないかと聞いたところ、この通称凸凹神社(多賀神社)を教えてもらった。

 

一見して何もない神社である。

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風変わりな像があるだけで、こじんまりとした良いところだと思った。

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…ところが、800円の入館料を払って付随施設に入ると、そんなイメージは全て消え去ってしまった。

 

 

 

…そこには夥しい数の性器があったのである。

 

 

 

神社に性器!まずその異様さに僕は面食らってしまい、呆気にとられていた。

 

見渡す限り性器である。確かに、神学において性というのは非常に重要な意味を持つことは疑いないのだが…

 

 

 

 逐一見ていくと、男根、男根、男根に次ぐ男根である。某員達が言っていたような妄言が具現化した空間に僕はいた。

昔の民間信仰の中で作られた太い男根が飾られており、玉金様とお札が貼られているもの。

異様に男根が太く心臓あたりまで届いている恵比寿様のような像。金精神社とかかれたお社の中を覗くと、金色に輝く男根が祀られていた!

 

他にも、顔が女性器の伊邪那美と顔が男根の伊奘諾像(見事な事にキチンと顔として機能している!)、異常に大きく太い男根(自分の足くらいはあるのではないだろうか)、よく出た腹に女性器の付いた笑っている親父の像、飛ぶ男根、円光のある男根、等々…

 

それが全くふざけて作ったものではないのだと分かっていても、どうしても眼前に広がるそのインパクトに笑ってしまう。オタクの悪ふざけの妄言がそのまま具現化しているようなものだ。

 

 だが、特筆すべきはそれだけではない。そのあくなき学問的探究心である。小さな三階建てのフロアに対して異常なまでに集められた性に関する像や物体、壁どころか天井までに張り巡らされた文字や写真、そして一つ一つを細かく読んでいけば優に数時間はかかるだろう随所にある手書きで書かれた解説や考察の数々…単なる面白性文化物を集めただけなのではなく、民俗学の域に踏み込むほどの探究心と熱量が感じられる。なるほど撮影禁止なわけである。

 

また、入り口付近に張り巡らされている神主が直接撮って回った東南アジアやアフリカの土着民族のリアルな写真は、性というより文化人類学的な様相を呈しており、彼らの興味深い風俗を明らかにしている。

これらは神主のフィールドワークのまさしく成果と呼べるもので、地道な個人の努力が感じられる。神社にあった奇妙な石像はこうした調査の過程で収集したのだろう。

 

その集大成ともいえる、未発掘の遺跡から原住民が盗掘してきたのを買い付けたという性神像は、最早単なる男根像の域を超え美術的に貴重なものである。明らかに国立美術館の企画展で見るべきものだ。

アンコールワットにも同様のものがあるらしく、もしそれが事実だとしたら紛れもなく世界的な価値のあるということになる。

 

このように、小さな神社にある性器資料館は、単純な造形のインパクトで笑えるだけでなく、貴重な民俗学的資料としても見ることができる展示物の数々により、学問的な好奇心をそそられる充実した場所だった。

 

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撮影禁止(見つかった場合撮影料2万)というのが口惜しいところだが…出た後なら納得できる。
f:id:von_schwerin:20200920163211j:image(外に出るとトンビの声が聞こえる静謐な神社に変わる)

 

もしこれを見た人で四国に行くことがあれば、宇和島の多賀神社は一見の価値があると思う。

 

多賀神社:http://dekoboko.chu.jp/

 

 

 

 

悪魔の発想

夜中に痛い妄想で脳が支配されてしまうのは、中学時代に多くの人が経験する出来事だと思う。

私はいい年して未だにそこから抜け出せず、頭の中では断続的に色んな妄想や場面が繰り返されている。これが病気だとか、拗らせだとかそういった話は面白味がないので置いておいて、ここにメモとして綴るのは、その中で気づきゾッとした事象についてである。

 

私が一場面を妄想する場合、その主人公は情けない男子中学生と同様に、限りなく自己に近い存在になる。

ただし全く現実的な自分を写し出しているわけではない。妄想の中の主人公は、いつも理想の自分や理想の人格を混ぜ込んだものだ。理論上の最高点、宗教における聖人のような、モデルケースでありながら、孔子のように決して癖や人間らしさがない訳でない存在、それが妄想の中の主人公である。シチュエーションや場面は違えども、みなこの理想の上での自分が常に妄想での主役だった。この妄想は、一種のシミュレーションの役割を担っている。日常や物語のあらゆる場面で自身の印象に残った箇所を、自分ならどうするか、なぜこうなるのか、のシミュレーションをし続けているのである。

私はこの間、例に漏れずそうした気まぐれの妄想をしていたのだが、そこではその聖人主人公が、若い女性と睦み合う一場面だった。文字にすると本当に痛々しいが、問題はそこではなく、主人公が若い女性に対し、精神における弱い部分やかなり常人離れした癖を認めたのち、受け入れている図だった。

その時の主人公は仏のような顔をして、心持ちは許容をする快感を全身に受け止め多幸感に溢れていた。なぜ、他の人は互いに争い、負の感情をちらつかせ、ささくれ立つのだろうか、そのようなまさしく菩薩の心になっていた。

だが、それを満足げに眺めていた自分はあることに気がつきゾッとしたのである。

それは、そうした心持ちが、相手を無意識に、無条件に見下すことを前提としているかもしれないという点であった。

 

要するにこれは、自己を上に置くことでそれに対する圧倒的な優位性を付与し、そこからその「庇護対象」への慈愛の目を向けているのではないか?

翻って私を見てみると、この聖人主人公の論理をよく採用しているのをよく見る。私は争いが嫌いだった。それは自分がかつてあまりに稚拙で攻撃的だったことへの嫌悪からだった。だからそんな自分を変えたくて、アニメや漫画の主人公のように人徳のある人間になりたくて、必死に争いを嫌うようにした。

元々本質的な面で争いを嫌う要素はあった。いつも悲しい思いをするし、負けるのは僕だったからだ。だがふっかけられた悪意を避けること、これは難しかった。そこで知らぬ間に解決する手段として、それを受け入れるという手法を取り出した。開き直って向こうの言を積極的に肯定したり、その人の攻撃を弱さゆえのものだと「同情」することで納得をつけてきた。

そう、まさにこれは聖人主人公のそれなのである。「僕にもそういうところがある。」「僕もそういう時期があった」「僕はその気持ちがわかる」そういった言葉で不快感を飲み込み続けてきた。そこから不快を思案に変える時が多かったが、次第にそれは幸福感へと変わっていった。子を見つめる母のような、かつての自分を見る私のような、そのような慈愛に満ちた心持ちになることで、不快なものを許容する手法というものを形作っていった。

…これは、全く恐ろしい人工の天使で、その実態は欲深い勝利欲と自己陶酔を起源としていたかもしれないのだ。

包むというのは包む側が包まれる側より大きくなくてはいけない。その時点で両者の優劣は明白である。他者を対等な立場として見ずに、縮小化して自己の中に抱擁する。外面は美しいが、内面は実に真逆のグロテスクさがある。

…これは、悪魔の発想だ。

単純な悪事ではなく、狡猾で、残忍で、傲慢で、欲深く、

ただ純粋な勝利欲と相手への攻撃性を誤魔化して、

白塗りの化粧を塗りたくり、相手を徹底して見下し、自身は聖人のように振る舞い自分自身も騙す。

 

…もしかすると僕の理想とするものは、そういう汚れたロジックに満ち満ちているのもなのかもしれない。現実の私は矮小愚鈍、自己より弱い者に強く、自己より強い者に弱く…業人が見る聖人とは、ややもすると他の人が見る聖人と別の何かなのかもしれない。天道にいる者が見る聖人は、こうしたロジックを持たない何かなのかもしれない。しかし私は修羅を超え、畜生と化し、餓鬼さえも超えた獄卒になった。そのような者が見る聖人とは、果たして成人なのだろうか。結局のところ、大本は変わらないのではないか。

 

それが、とても、怖い。

 

 

皮肉の循環

僕も陳腐なニヒリスト、いやシニストなので、皮肉ばかりが楽しみになってしまっている。元々反骨心8割に純真さが2割の性質を持っていた私は、皮肉と相性がとても良いのだ。

 

 ところで皮肉屋というのは、皮肉そのものに対する皮肉を持っていなくてはいけない。皮肉屋の姿勢には、何者にも屈しない己というものが必要で、皮肉屋は皮肉の信奉者でもなければ教条屋でもないからだ。

 しかし、敵にすると分かるが皮肉はあまりに強力すぎる。弱者が持てる最後の武器であるだけはあり、その力は大きく隙がない。

 そうして強力な力を持って君臨する「皮肉」に対して最大の対抗ができる「皮肉」は、おそらく唯一つ、皮肉そのものの意味を解さずにそれを字義通りに受け取ることだ。すなわち、純真であれ。これぞまさに皮肉に対する最大の皮肉で、これをもってして皮肉は一巡する。なんとまぁ、皮肉なことだなぁと思っている。もし歴史の中に埋もれていった人で、己が思慮を以ってこれに気づいた人がいるのであれば、死後何年かかっても探し出して、一緒に酒でも飲みたいものだ。

 

 

※追記

この文章は、2017年?頃に作成した文章を、書くことがなさすぎるからそのまま転記したものである。

旅情

  故あって伊豆大島に行った。前々から行きたかったのだが色々予定が合わずに結局行けず、もう大学も終盤戦という時に行くことになった。 詳細は省くが、実に良いところだった。結局僕は田舎町を目指しているんだと思う。伊豆大島桃源郷ではなかったが、僕の精神を休ませてくれるには十分すぎるほどだった。

 

 帰りのフェリーを待つ間、f:id:von_schwerin:20190224120438j:image
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ぼんやりとここで海を眺めていた。赤い石ころが沢山波打ち際に転がっていて、それを拾おうとしたら波に靴を濡らされた。靴下まで濡れてしまったので靴を脱いで、堤防に座り込んでいたのだ。

 赤い石ころは綺麗だった。形は不恰好だったが、赤黒い色が魅力的に思えた。

 海は綺麗だった。奥に見える岩肌をつたって行ったらどのような景色が見えるのか、鳥が大量に留まっている離れ岩に、歩いていけばいけるのでは無いかと色々な考えが頭に浮かんできた。

 そうしてぼんやりと海を眺めているとふと、フェリーの出航時刻が近いことに気がついた。僕は濡れた靴を履いてゆっくり立ち上がり、赤い石をまじまじと見つめた。

 

 

 あぁ僕がもう少し子供なら、この石ころを持ち帰るのに。僕がもっと子供だったら、今すぐ服を脱いであの岸壁の向こうまで泳いで行くのに。

 

 そんなことを考えながら、僕は海に背を向けて、赤い石を投げ捨て波止場へと歩き始めた。

 

 大体そんな感じの、散歩でした。

人間的な、あまりにも人間的な故に。

なんというか、ここに書くのはちょっと恥ずかしいのだが、少し見苦しい部分を吐こうかなと思う。

 恥ずかしいことに僕は聖人じゃないので、卑しさを大量に抱えている。主観としてはこのことを言うのは大変恥ずかしいのだが、出来る限り客観的に分析する為に、それはナンセンスだと割り切る。

 なぜそうなったのか。多分、自分の能力の低さとそれが反映された人生と相関性があると思う。だが、その事について考察はしない。今回の主題は自己の卑しさを演繹することだ(これ使い方合ってる?)。

 

 …どこから述べればいいのだろうか。僕は自分の能力や、知識、思考能力、そして積極性が劣っていることは承知しているのだが、世間を覗くと僕より圧倒的に潜在的な能力の高く、自分と年も近く目指すところも似ている人を多く見る。そうした人々と僕が並んだビジョンを思い浮かべて、シュミレートすると、彼らは、苦渋を舐めつつも進むのをやめなければ先に進んでいくのに対して、僕は同じ苦渋を舐めつつも進むことができなかったり、現実逃避やその場の誤魔化しで生きていくビジョンがありありと見えてくるのだ。

 辛い事実ではあるが、妥当性はある。自分がネガティブなのはとっくに知っているが、そこを考慮してもこのシュミレートは妥当性があると思う(要出典)。

 ただこれには問題がある。そうした優秀な人々が苦しみながらも前に進むのを辞めないことを、前提としている点である。

 実際は、そうでない場合がかなりある。僕より優秀な人たちは、優秀であった為に自尊心もそれなりにあり、挫折経験も少ない場合が多い(これは特に若い人にその傾向がある)。彼らは能力こそあれども、それが通用しない段階に上がった時のメンタリティを有していることが少ないのだ。

 この種の人物は、確実にいる。

 自分の能力を基礎に努力を繰り返すのではなく、自分の能力に依存していた人がそれだ。前者がそれまでの努力や苦難の経験から、努力も込みで自己の優越性を冷静に認識するようになるのに対し、後者は順調にステップアップしたところで急に自分の力だけでなく努力も必要なことを自覚すると、狼狽する。自己の矮小さに晒されると、縮こまって、井戸の中に引きこもり、概してネガティブな自問自答を繰り返すのだ。彼が入る井戸には他の誰も入れず、見えているのは真上に見える煤けた青空だけ、そんな空間でひたすら自問自答するのだ。そうして最後にはネガティブな自己世界が形成され、今までやってきたように、逃げようと決める。このタイプの人はそうやって消えていくのだ。考えてみれば当たり前である。彼らは自身の能力に全力の信頼を寄せているから、際限なく拡張指向性を持つ。しかし彼らの能力は無限ではない。枠が広がり続ければどれだけ優秀でも、いずれその能力を覆い隠してしまうだろう。であればいずれ隘路にはまることを運命付けられているようなものだ。

 僕のやりたい方向でも、そういう人は居る。そういう人を観測し、彼らがやがて、軋轢に耐えられずに逃げていくところを見ると僕は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ホッと、してしまうのだ。

 

 

 

 

 

 ホッとする…この一言だけで自分の卑しさは嫌という程伝わると思う。有望な人間が加わらない事なんかどうでもいい、と思っていた。僕は情けないことに、自分よりも有能な人間が消えていくことに絶対的な安堵感を覚えていたのだ。

 その時、その瞬間、僕はこのことは、他の人にも当てはまるのではと思った。僕の憧れの対象であった学問の世界は、何故そうなるのか分からないほど幼稚な人もいることを観測している。前までは、それが理解できなかった。しかし今は、実感を伴って理解できる。彼らの行動の起源はきっと上記の感情なのだろう。

 

 例えばの話をする。

弱々しい能力の中で歯を食いしばって図太く生き抜き、なんらかの世界の権威に収まった人がいたとする。その人は、優秀で自分より若い人に対して嫌がらせだとか、濡れ衣、露骨な冷遇などを行い、人類全体の幸福を促進させる発見だったりしても、ちっぽけな自己の為に抑圧することも辞さない…似たような話をどこかで聞いたことがないだろうか?

 この「仮定の人」の行動の起源は、先に述べた人間らしい醜悪さを相対化できず、肥大化させていったからなのだろう。

 なにを当たり前のことを、と思うかもしれない。しかし、その当たり前のことを認識することはあまりに難しい。人間は自尊心がなければ生きていけないので、欺瞞を掲げざるを得ないからだ。自分自身を欺く自分がいる。そのことを本当に認識して、自覚している人は一体どれほどいるのだろうか。上述の「仮定の人間」を嘲笑しながら、いつのまにかその「仮定の人間」に自分の名前が代入されている事に気がついて驚く人はいるのではないだろうか。

 少なくとも、僕は、あの卑しさを実感した僕は、「仮定の人間」が他人ではなくなるかもしれない事に気がつき、身震いしてしまったのだ…

 このことは、学問の世界のような崇高な場所でも権威主義教条主義のような問題が根強く存在しうるということを明らかにしている。述べてきたような人間らしい醜悪さが教条主義権威主義を構成する要素の一つであるならば、これを取り除くことはほとんど不可能だ。

 なぜなら、もし上記の問題が全て存在しない理想的な形か形成されうる場合、その構成物全てが僕のような普遍的な人間らしさを捨てた存在でなくてはならないことを意味しているからだ。そんなものは無理だ。きっとそのような人々は、生きていくことだけでも困難だろう。

 

 僕はまだ、この問題にどう向き合っていけば良いのか分からない。一つ言えるのは、人間は本質的にどうしようもない醜悪さを含み、それは取り除くことはできないということだ。

 無責任な哲学者のように月並みな言葉を残すとするなら、私達は自己の醜さと向き合わなくてはならないのだろう。多分。

そういえば記事を忘れていた

 はてなブログからのメールが来て1ヶ月スルーしていたことに気がついた。何を書こうか何も考えていないので近況報告でもしますか。

 近況は…最悪である。最悪過ぎる…少人数講義のレポートが夏終わりにあるのだが、それがまっっっっったく進んでいない!書く内容すら決まっておらず、文献はとりあえず掻き集めたがこの少ない日数でプロットが書ききれる自信がない…そしてこの夏、勉強らしい勉強をせずにただ怠惰を貪るだけだった…

 最悪です。はっきり言って最悪。何も充実させることができていない…

 

 そんな中現実逃避行をしていたのですが、その最後で尾道に向かいました。前々から行ってみたかったところだったのですが、想像よりずっといいところだった…多分僕が知っている中で一二を争うレベルだと思う。

 まず、立地が良い。近くに海があり、群島があり、車で1時間程で四国松山方面に行ける。海だけではなく山もある。言わずと知れた尾道名物、山と連なる住宅群だ。ここはびっくりするくらいに雰囲気がよく、のどかで、快い風とともに上から見下ろす尾道の風景は自分が神にでもなったのではないかと確信させます。

写真は下手ですがこんな感じです⬇︎f:id:von_schwerin:20180910095852j:image

 

  古めかしい家々に多くの神社や寺院もまた、尾道の三つ目の良ポイントです。尾道の象徴である山の上の千光寺はその造形は如何に、文学の道を抜けてあそこから全景を眺めていると、暑さも何処かへ行ってしまいます。その他にも人の生活に溶け込んだ無数の寺院や神社が人を落ち着かせる環境を構成しています。海、山、島、社、これら僕の大好きな要素が全て揃っている尾道は、僕にとっては吐き気がする程美しく感じました。親と喧嘩でもしたら一年ほど過ごしたい場所ですね。いや一年と言わず一生住みたいくらいですが…

 そんなわけで…尾道に行った僕は、インスタグラマーのように写真を撮り続け、また全身で尾道を感じできました。その後色々最悪案件があったのですが、それは別の話。この街の美しさの前では細事です。

 

 インスタグラマーといえば、僕は風景を写真に撮ります。まぁiPhoneの奴なんですが()。みんな写真撮ると思います。僕の場合、共有するというよりは、その場を保存する意味で写真を撮ります。感銘したとき、その瞬間を切り取りたいから写真を撮ります。自分の記憶が信用できないので、記録しておきたいのです。尾道は特にそれが多く、無限に写真を取ってしまいました。しかし共有する訳でもなく、実は見ることもあまりありません。とにかくこの写真を撮るという行為が大事らしくて、撮ろうとする意思でそこの美しさを自分に印象付けているみたいです。これみんなそうなんでしょうか??そういう話した事ないんでよく分かりませんが。

 しかしまぁ、尾道に限った話じゃなく写真じゃ絶対にその空間を再現できないのが口惜しいですね。僕が感銘を受ける風景情報は、環境音や時間の流れ、そこに自分がいる等々「今ここにいる自分が知覚しうる無数の諸情報が構成している空間(=風景)」ですから、写真のそれとは明確に違います。写真独自の加工とかが出来ても限界があるんですよね。だから動画も撮ってみることにしましたが、やはりもの足りません。いや写真よりは何千倍も良いんですが、やはりどこかもの足りません。上述したように滅多に見ないし写真や動画は然程重要じゃないので、別に良いといえば良いんですが、それでもそこは満たしたいところですよね。

 だけど現実空間をそのまま複製して切り取るだなんて厨二系バトル漫画じゃないので出来ないことは分かっています。これからの技術の進歩に期待、ですね。